私たち日本人は 普段お墓参りや神社参拝をしなくても
せめて お盆 ぐらいは お墓参りとともに 神社仏閣に手を
合わせたり していますね – – –
ではせっかくの機会を 幸運のチャンスに 切り替えませんか?
自分にとって
一番大切な [産士( うぶすな)神社] はお参りしましょう
[ 産士神社リサーチ] を受けて 一か月 になりますが
生活の中で たくさんのプラス変化がありました
ヒーラーとしても 色々な啓示を受け続けています
この一か月 私の感想 – – –
あまりにも重すぎる カルマを 持って 生まれた私は
幼児の頃から災難 不幸 続きでした
2才半で両親は離婚- – – 祖父母のところに預けられて ました
8才の時に 神経性胃炎 激痛で 何度も 倒れました
10才の時に 心臓病を患って 5ヶ月間 入院
生きられてもあと5年ぐらいと医師に告げられました – –
普通は子供にはそんな現実 – – – 隠しますよね- – –
ところが- – –
「 あんたの命 は15歳 ぐらい までだって!」と 育て親の 祖母が
「医者に 宣告された」と私に 暴露して来たのです
それも私に 怒るような口調で 言葉をぶつけてきたのです
私は そういうことなのか !- – -しょうがないと思って
死に対して カウントダウンを 始めました 初めは冷静でした- – –
自分が 実在していたことの証に 作品を作るようになりました

1973年 はじめてのメタルアート展より 「生きられた時間」
しかし その後の 私は
[死に対する恐怖] [孤独感 ] [愛された 記憶がない]
小さな 私を 抱き締めて 泣かせて くれる 存在 もないのです
身の置き所がないのです ブルブル震えて ただ泣くだけでした
そのストレスに耐えきれず
「あぁ~私の人生は虚しい!- – 」 と 言って 睡眠薬自殺を計りました
– – — 小学生の時 です
そのせいで体はもっとボロボロになりました
そして – – -15歳過ぎても まだ 生きていたので- – – 大阪芸大に進み
アーティストになることを決め 19才から起業し スタジオを 経営し
仕事は順調 !
活動もどんどん TV や マスコミに取り上げられました
ところが 今度は 4年半 元彼から ストーカーを 受け続けました
初めは つきまとい – 待ち伏せ- – 監禁や脅迫 犯罪の強要- – –
ついに 刃物を携えて追っかけられるようになり 警察も守ってくれず~
仕事も全てを捨てて 北海道の 誰も来れない 僻地に身を隠すように
– – 大阪に帰ってから 対面 ついに 撃退しました- – できました!
この辺のお話はまた後日- – – –
私の暗いお話は 喋るときりがないので – – – 明るい近況報告を!
1か月前 初めてうぶすな神社にお参りに行った時
その 帰りに 故郷 堺市 の浜寺公園駅の 駅舎の写真を撮りました

過去の 故郷 のイメージです 27才までいました
私は来年70才です
インナーチャイルドなどは もうとっくの昔に解消されて 残っていません
またカルマに関しては ヒーラーとして活動する前に
(大きな命取りになるような) 重い カルマは 既に解消済みです
でも – – -過去を振り返ると 故郷の印象だけはよくありません!
イメージが悪すぎます! 上の写真のままです
だから故郷に戻ろうとする気が起きないのでした
そんな人いませんか?
私ほど ひどくなくても 何となく嫌で故郷に帰らない人いませんか?
これものすごい大きなマイナスですよ!
こんな過去を持つ私だからこそ言えることです
[産土 神社リサーチ]を 受けて 自分自身のうぶすな神社にお参りをした後
写真を見ると随分印象が変わっていました
印象として入れ替わった楽しい思い出の 数々 ~
浜寺公園駅は 1907年 辰野金吾の設計 です 東京駅の設計も 同じ
この写真の 向かって右 のスペース のところに 父親の歯科医院があり
趣味の車やボートが並べられていて 若い人たちのたまり場 で
賑やかでした 1950年代はまだアメリカの進駐軍がいました
駅舎はちょうど 西を向いていますが 西に50 m ぐらいのところに
杵屋流 (長唄三味線) の家元が住んでいました 賑やかでした
そして 当時としては 珍しい テレビの シナリオライター もいました
100 m くらい西には砂浜があり 美しい海岸がありました
この駅舎の 東 奥には 私の実家があり 小学校や 産土神社が あります
実家の近所には 文化人が多く 藤本義一が住んでいたり
今でも白い巨塔で有名な 山崎 豊子 氏の家もあります
地唄 吉村流の家元 (ピーターの実家 と聞きましたが- – )も
浜寺昭和小学校の向かいに いらっしゃいました
最近の 噂では 浜寺中学校に 歌舞伎俳優の 片岡 愛之助も通っていたとか – –
当時 浜寺公園は 歌舞音曲の世界で- – – 歩いているだけで
三味線や琴 長唄や小唄
ピアノや トランペット バイオリンなど が浜風とともに 流れてきます
映画関係者や テレビ関係者 出版社 新聞社 スポーツ界 実業家などの
文化人 の 交流の多い町でした
粋筋の 元芸者や 日本舞踊 の先生 なども住んでいて – –
夏の夕暮れは 女性は皆こぞって浴衣姿でした
町が美しかったです 映画の世界のようでした~
– – そういえば – – 私は 日本舞踊や 長唄 も習っていました
進駐軍の影響もあって多国籍の方々とも共存していました
文化水準としてはすごく高かったと思います
その影響が メタルアーティスト アキコ伊達を 生み出したと思います
しかし イメージが悪いため何十年も故郷に帰ろうとしなかったのです
あの 陰気で絶望的な 印象 はどこに行ったのでしょうか?
笑ってしまいます!
昨日も うぶすな神社にお参りをし 浜寺公園 を散歩し
楽しい思い出に 浸っていました- – –
自分の故郷をこんな思いに変換できたら人生観変わりますね!
まるで楽しい映画を見ているようです!
私はいい思い出も何十年も封印したままでした 損しましたね!
私もきっかけはブログです!
産士(うぶすな)神社リサーチは かなりのボリュームの資料があります
A 4判で14~5枚の リサーチの 書類が届きます
その中には初心者としてお参りの仕方や 祝詞の上げ方
どうすれば良いのかということが 迷わないようにキッチリと
書かれています
また後日 遠隔でも対面でも 説明を聞くことができ これが重要です!
特に ヒーラー など の お仕事をしてらっしゃる方 能力アップします!
霊媒体質の方なども 行かれることをお勧めします
詳しいことは下記リブログをお読みください
そして直接お申込みくださいね!

[もし今の私だったら – – –
子供の頃の 私自身を 助けてあげることは – – できる かもしれません!]